遠距離介護の体験談
パオッコに寄せられたたくさんの遠距離介護の体験談。誰かの体験が他の誰かの役に立つように、貴重な体験談を集めました。あなたの体験談も是非お寄せ下さい。投稿の方法はこちら
故郷を離れて生活しているうちに、いつのまにか老いていく親。心配ではありますが、だからといって故郷にUターンするにも親を自分たちのもとに呼び寄せるにも、さまざまな困難があります。残された方法として、親子が別々の土地で暮らし続け、子は遠くから親のケアに心を砕く「遠距離介護」……この方法を選択するにあたって、子世代にはどんな思いがあるのでしょうか。投げかけた5つの質問に答えていただく形で体験談をお寄せいただきました。
郷里のご家族の状況…親ごさんのお住まいの地域、年齢やひとり暮らしかどうかなど
遠距離介護を選択された理由
現在(もしくは過去)、どういうかたちで親ごさんのケアをなさってますか?
…帰省の頻度、介護保険を使っているか、民間の各種サービスを利用など
遠距離介護で苦労なさっていること、もしくは不安に思うことなど
その他…親とはなれて暮らす子どもの言いぶんなど
体験談:015
H・Nさん (岐阜県在住 50代女性)
遠距離介護生活の始まりは平成8年。埼玉県在住の父が胃癌とわかり手術の日程を決めるころから母がうつ病に。父の入院直前に母の状態が悪化し、精神科の専門病院に入院させることとなった(閉鎖病棟)。両親は東京都のそれぞれ別の病院に入院することになり、岐阜県から泊まりで行くことに(両親が住んでいたマンションにしばらく滞在)。その頃、私のお腹には9ケ月になる次男がおり、大きなおなかを抱え、片手に二歳の長男の手を引き、片手にベビーカーを持ち両親それぞれが入院する病院に毎日 電車で通うという生活で大変な日々だった。 父の胃癌の手術は成功し、その後の経過も順調だったが、母のうつは次第に悪化。父一人では介護しきれなくなり、介護サービスを入れたり、私も幼い二人の子を連れ岐阜から埼玉に頻繁に通うようになった。
10年間の遠距離介護中は母の行動で警察から連絡が来たり、二人してけがをして救急病院から「すぐ来てください」と連絡が来たり…一日も気が休まらない日々が続いた。父もがんばって母の介護をしていたが、胃癌、大腸がん、リウマチ、一過性脳虚血発作等でだんだんと体も弱り、母を見送ったあとはとても一人にはしておけない状況で岐阜に呼び寄せ同居が始まった。いろいろあり、家族も大変だったが6年の介護の末 見送ることができた。
私には兄がいるが、両親と兄は折り合いが悪く、介護するのは私しかいないと岐阜から埼玉に通った。
遠距離介護中は、訪問介護を週三回利用。調理や掃除をお願いした。母は調子が良い時はデイサービスにも通い、なるべく父が休める時間を作った。両親が住んでいるところの隣の市に親戚がおり、何かとお世話になった。月一回(遠距離介護の終盤は毎週末)帰省する際には、隣家の方にお土産を持って行ったり、ケアマネージャーや民生委員さんのところに行ったり、マンションの管理人や日頃お世話になっているたくさんの方々のところに顔をだし、日頃のお礼と見守りのお願いをしに行った。
緊急のことで行かなくてはならなくても、岐阜から埼玉へは5時間以上かかるのですぐにはかけつけられず、その間に対応してくれる人をさがすのが大変だった。いつ電話がかかって呼びだされるのかと思うと気が気ではなく、心が休まらなかった。母は病気の影響で気分の浮き沈みが激しく、電話で「すぐ来て!」と言われて新幹線に飛び乗り駆けつけると、連れて行った子供の声がうるさいと言われ「子供の声が頭に響くからもう帰って」と言われたことも。 育児と介護が重なり大変だった。32歳から始まった介護だが、まわりの友達はまだ子育てが忙しく介護とは無縁の人ばかり。だれにも相談できないということがとても辛かった。
両親の介護をするのは私しかいないと頑張ってきた。幼い子二人を置いて数日家をあけるわけにもいかず、片道5時間以上かけて幼子2人を連れて新幹線に乗り通った。何日も家を空けるので主人に申し訳ない気持ち。主人の両親もあまりよく思っていないのではというちょっと後ろめたいような気持ち。一度 両親のもとに行くと、近所へのおみやげ代等も含め4~5万円かかる。そのお金を主人のお給料から出させてもらう申し訳なさ。介護サービスを利用して少し、安心できるようになってからは私も働き、介護のために帰るときは自分の給料から出せるようになり、少しだけ罪悪感が減った。遠距離介護終盤のころには子供も大きくなっており、主人に預けて 私だけで週末に行くことができた。金曜日、仕事を終えてから夜行バスに乗り 日曜日の夜行バスで帰り月曜の朝から仕事に出たこともあった。まだ、私に体力があったからできたのだろうが…。私なりに精一杯やっていたつもりだったが、両親のところから帰るときには 毎回のように「もっと近くにいてくれたらよかったのに」と言われ 遠くに嫁いだことを「親不幸だったのかな」と悩んだ。
10年間の遠距離介護で、介護のための帰省費用を自分の稼ぎから出すために就いた仕事は介護ヘルパー。両親の介護を常時できないので、身近にいる高齢者の手助けをして自分の気持ちを少し軽くしたかったのかもしれない。母を見送ったあとは、少し余裕ができたので ケアマネージャーに転身した。
長い介護生活は今思うと本当に大変だったけど、得たことも多い。
母のうつ病、のちにアルツハイマーとの診断もあった。
父はがん、リウマチ、一過性脳虚血発作、レビー小体型認知症にもなった。
患者の家族として、何人もの医師、あちこちの病院と関わった。
ヘルパーとなってからはプロとして介護する側の苦悩もあった。
ケアマネージャーとなってからは…
今までの大変だったすべてが糧になった。介護する家族の気持ち
ヘルパーとしての気持ち、
ケアマネージャーの気持ち
がわかる。
今までのことは無駄ではなかったのかなとふと思う。
先日もテレビで若いママさんたちが、育児と介護の両立をがんばっている姿を見た。
老々介護でがんばっている方々もたくさんいる。
どうかどうか がんばりすぎないようにしてください。
介護も大事だけど、自分や自分の家族も大事にしてください。体験した者の実感です。
(原文のとおり2016.1.9掲載)
体験談:014
F・Kさん(スイス在住 50代女性) *自由記述での投稿
つい先日、一人暮らしの老父、89歳が「オレオレ詐欺」の被害に会いました。海外生活の私は、何もできず、どこへ怒りをぶつけたらいいのかもわからないまま、ただただ詐欺グループを恨むだけです。
今回、お話したいのは、この詐欺事件での悔しい思いも然る事ながら、大手銀行での老人への対応について皆さんにお知らせしたく、投稿した次第です。
詐欺の内容は、よく警察や自治体の防犯サイトにあるようなマニュアル通りの手口でした。「病院にカバンを忘れた、カバンの中に小切手が、内緒でお金を貸して・・・」特に、一人暮らしの高齢者は、電話で優しく「俺だよ」なんて言われると、親心スイッチが入り、声を聞き分ける能力やその場での判断力など、まったく失ってしまうそうです。
歩行困難な父親は、タクシーを飛ばして銀行へ行きました。
ここからが問題です。これだけ事件が多発しているにも関わらず、銀行の窓口では、大金の使用目的を「リフォーム」という詐欺師からの知恵をそのまま丸呑みで終わりだったそうです。
事件後、友人から、地元密着型の信用金庫などでは、老人が大金を下ろす際は必ず別室へ通し、警察へ通報が決まりだと教えてくれました。それで、何度も事なきを得たそうです。それなら、大手都市銀行は何をしているのでしょうか?
銀行のサイトには、金融犯罪等にご注意ください、と小さく注意されているだけです。もう、携帯電話でATMへの誘導は、過去の話。今では、ATMを操作できない高齢者を狙った受け渡し式の詐欺が8割だという現実。振り込めではなく、受け取り詐欺なのです。
銀行窓口の対応如何によっては、今回の老父の事件も未然に防ぐことができたかもしれないと思うと、腹が立って眠れません。
(原文のとおり 2014.10.15掲載)
*自由記述の投稿です。パオッコからの1~5の質問に答える形ではありません。
体験談:013
M・Kさん(東京都 50代女性)
06 年に父を、07 年に母を見送りました。通いの介護らしきものが始まったのは、05 年に両親(当時 88 歳、85 歳)が相次いで入院、先に退院した母が、京都市の住宅街にある一戸建ての家でひとり暮らしをすることになったころです。実家とは徒歩数十秒の距離に、長男である私の兄(7歳年上)夫婦が住んでいます。また、両親が家を建てた 40 年ほど前からの積み重ねで、ご近所では親戚より近いほど親密なおつきあいが続いており、皆さんで気をつけてくださいました。
私も3歳年上の夫も京都の出身で、81 年の秋から東京で暮らしています。私がフルタイムの職業についていたころは、なかなか里帰りもできませんでしたが、98 年にその仕事をやめてからは講習会を月に1回東京と京都で持つようになり、必然的に毎月両親の顔を見られるようになりました。もちろん、京都での講習を引き受けた理由の一半はそれです。
つききりで介護するほどの必要はありませんでしたし、私にも東京での生活があり、それを放棄してまでのことを誰よりも親自身が望まないとわかっていました。まだ母が元気だったころ、「いつか体がきかなくなったら」という話をしたことがあります。私が京都に来られるのは月に1回がせいぜいだけれど、母が京都を引き払って東京近郊の施設に入ると、少なくとも毎週は会える、と。「そやなあ、それもええなあ」との返事でしたが、京都に友だちの多い母のこと、結局その可能性を真剣に追求することはありませんでした。
毎月決まった日にちに帰省して、一緒に暮らしました。1回の滞在日数は、入院するまでは2~3泊、退院後は1週間。8年前、母が変形性膝関節炎で手術を受けたときに、京都市の補助を申請して、玄関と2階への階段と浴室に手すりをつけてはありましたが、それでも急勾配の階段の上り下りがたいへんですので、寝室を2階から1階へ移動しました。電動で角度が変えられるベッドを介護保険で貸してもらい、トイレの近くの部屋に設置、居間にあったテレビもベッドの傍に移動しました。
6週間もの入院生活は母から気力を奪い、傍目にも消耗が見てとれたので、退院後はヘルパーさんに週2回、掃除と洗濯をお願いしました。母は昔から進歩的な性格でしたので、他人さんに家に入ってもらうことなどに対しての戸惑い、あるいは拒絶反応はまったくありませんでした。これらの手続きは兄の助けを借りつつ、母が自分でやりました。
食事の準備は兄嫁に頼ることになり、昼食と夕食を毎日届けてもらいました。食事の内容は兄夫婦と同じで、使った食器は母が毎回自分で洗って拭いて、兄嫁に返していました。母は体調のいい日には近所のスーパーマーケットに行って、朝食のパンやサラダなどの材料を買い置きしたり、好みのものを少し買ったりもして、自由度は保っていました。これは確実に気持ちの張りにつながっていたと思います。ただ、母の矜持でしょうか、食費や雑費を兄嫁に渡していました。
今でも不思議なのは、そんな母が、私の滞在中は所帯の経費をすべて私に負担させて、「おーきに、かんにんえ」のひとことですませていたことです。私自身に多少の収入があったからこそ、母が喜んでいればそれでよしと思えましたが、そうでなかったら、どこかで気持ちの負担が募ったであろうと考えます。
ひとり暮らしですのでお風呂についても不安で、デイサービスを利用してみましたが、入浴のし方など母の期待に沿わないことがあって、やめました。以後、お風呂はヘルパーさんが来てくださっている昼間に入るようになりました。私がいるときには夜の就寝前に入り、毎月私に足の爪の手入れをしてもらうのが楽しみのようでした。
東京・京都間は新幹線で2時間半とはいえ、駅までの往復を加算すると、やはり片道4時間以上かかりますし、移動だけでも疲れます。帰省前後の準備やあと片づけもあり、月のうち10 日はそれにとられるのがつらかったです。不安だったのは、ひとり暮らしの母が何かで倒れて誰にも気がつかれない状況になること。 1日 1回 夕方に、兄嫁が食事を持って訪れてくれるのと、ご近所が見守ってくださるので、それだけが頼りでした。
想定外で慌てたのは、病院で亡くなった父の納骨を済ませたころから、母がおかしくなったことです。本を読みながら 「何にも頭に入らへん 1」 と怒りだしたり、夜ベッドに入るときに「子どもらのお荷物になってる……」 と泣きはじめたり、唐突に説教を始めたり。それが半年ほども続いたように思います。
このころは毎月京都に帰るのが苦端になりました。若いころはあんなにテキパキしていた母が、と思うと悲 しかった。腹も立ちました。母に腹を立てる自分に対 して腹が立ちました。思えば、兄夫婦は母 と四六時中顔を合わせて暮らすわけではなく、食事を運んでくるときにちょっと世間話をする程度です。母は見療に対 して多少は気が張っているので、妙なことは言わないのだろうと思いますが、実の娘の私には何でもとにかく日にして発散していたのでしょう。ハイハイと聞き流すことができず、真剣に向かってしまう私は消耗して、帰りの新幹線では気持ちと体の疲れから、席に座るとすぐに限っていました。
私が東京から通うことを、母の近所に住んでいる兄夫婦は「1週間くらい」と軽く考えていて、それについては不満でした。母と実際に一緒にいる時間でいうと、 1週間の私のほうが、別居して毎日20~30分程度の兄夫婦よりはずっとヘビーであることが、ある黄味では母自身にも、なかなか理解されませんでした。
滞在中の私が友だちと出かけ、帰ってきて 「皆がおかあちゃんによろしく―、て」 と伝えると、「ありがたいことやなあ。娘の友だちが皆で私のことを気づこうてくれはる」と喜んでいた母が、 まさか翌朝起きてこないとは一前日まで普通に過ごして、誰も知らないうちに亡くなったことについては、たぶん母の本望であったと思われます。 しかし、子どもの立場からは、長くても暫くでもつきっきりの介護がしたかったし、覚悟を決める時間が欲しかった、と切実に思います。今までのあれもこれも、お礼をいう暇もなかったのが残念です。
(会報パオッコ14号より)
体験談:012
K・Hさん(東京都 50代男性)
熊本県熊本市で二人暮らしの両親はともに78歳で、父は要支援1、母は障害者1級。 父は脳梗塞が直接の原因で身体動作が少し鈍く、昨年、自損事故を起こして自動車の運転をようやくあきらめてもらった。現在週1回リハビリセンターに通っている。。
私のほかに姉、弟と、子どもは3人いるが、東京、大阪でそれぞれ仕事をしており、なかなか熊本にUターンできない状況。両親は本音では誰かに帰ってきてもらいたいのだろうが、さすがにもうあきらめてしまったようだ。
両親はさほど社交的ではないので、近所づきあいはほどほど、それぞれ囲碁や詩吟といった趣味の同好のおつきあいはある様子。親戚は高齢化して、近くに頼れる人はいない。特に母方の親戚とは仲も悪く、こちらも気を使う。
子ども3人が2カ月おきに交代で様子を見に行っている。姉弟仲がいいのが救い。姉は女手として、弟は家電や携帯・パソコンまわりの技術的なアドバイザーとして、それぞれ活躍してくれる。 緊急の帰省以外には<特割>を活用。最近では、実家に泊まると布団の準備などでかえって母の負担になるので、ホテルに1、2泊している。
頼りにしているのは、包括支援センターのソーシャルワーカーさん。初めて介護保険を申請するときから親身に相談に乗っていただいた。「お母さんのことも含め、生活全般なんでん(何でも)、私に言ってください」とざっくばらんなたいへん信頼できるかたで、帰省する前などにメールで連絡とりあって事前打ち合わせをしている。
父は被爆者でもあり、また母もペースメーカーをつけて障害者1級になったので、国や自治体のさまざまな公的支援を利用している。ただ、昨年、障害者手続きをしたときは、書類の多さに閉口したが。遠方まで歩けないので、子どもたちからタクシーチケットをプレゼントして、買い物などにもできるだけタクシーを利用してもらっている。使った分だけ、私たちに請求がくる。タクシー会社がよくわかってくれているのも、助かっている。
昨年帰省したとき、少しでも頼りになる人を増やしたいとの思いから、父にことわって近くの民生委員の方に手みやげ持参で挨拶に行った。すると、母から「たまに帰ってきて人間関係もわからずに勝手に挨拶に行くな」とこっぴどく叱られてしまった。民生委員のご婦人に対してこころよく思っていなかったことを初めて知った次第。東京に戻るときも口もきいてくれず、おおいに反省したことがあった。母は、最近、攻撃的な性格をみせており、父の主治医や親戚の悪口を言ったり、あるいは姉に対しても強くあたったりする。姉弟でこのような情報を共有して同じ轍を踏まないよう、気を使っている。
親とのコミュニケーションには姉弟含め家族の特割がきくソフトバンクの携帯を利用。しっかり理解してもらいたい内容はメールも送って文字を読んでもらうのが一番のようだ。こちらも電話口のストレスを感じなくてすむ。また、親もこちらの情報を知りたいようで、できるだけ近況報告メールを送る。
最近横行している年寄りを狙った悪質な商売には、包括支援センターでも注意を呼びかけてくれるが、父が特に人がよすぎて、セールスを家にあげてしまうなど心配のたねは尽きない。アイホンをとりつけ、玄関は施錠して信頼できる相手かどうか必ず確認するよう注意しても、鍵をかけていないことが多い。また、そろそろ家のバリアフリー化も提案しているが、「必要ない」の一点張り。風呂場など危ないところをなんとかしたいが、こちらからあまり強硬にも言えない。
心配することばかりだが、両親とまめに連絡をとり、姉弟との連携、包括支援センターとの連携をとって、いざというときの備えをいまからしようと思っている。財産や収入の明細を教えてもらい、親の気持ちを大切にしながら、今後の両親の生活設計を考えていきたい。
(会報パオッコ12号より)
体験談:011
M・Iさん(埼玉県 50代女性)
栃木県にひとり暮らしの母は79歳。父は私が子どものころ亡くなった。曲がりぎみだった腰が最近さらに曲がり、少し動いては少し休む、といった様子ではあるが、電動三輪車でひとりあちこちに買いものに出かけたりしている。
51歳の私と50歳の妹は、埼玉県と神奈川県に在住。それぞれに家族があり、妹のほうは子どもがいないものの義母と同居で、会社勤めの身でもある。また、我が家の3DKの住まいでは、とても母を呼び寄せて同居するだけのスペースがない。さらには、母の性格から推して、私の夫や子どもたちとのトラブルが容易に予想される。それどころか、私自身がノイローゼになってしまうのではないかという危惧さえある。
母自身も、田舎に親戚や友人、知人が多く、ひとり暮らしのほうが気楽といった点からも、埼玉までは来たがらない。
妹の事情から必然的に、母の老後の世話は私が一手に引き受けることになると予想され、3年前に、実家へ通うため運転免許を取得(7カ月かかった)。現在、私が月に2回というペースで埼玉県の自宅と栃木県の母のもとを往復して、母のひとり暮らしを支えているつもりだ。
母は1週間に1度、車での送迎付きデイサービスに行くのをいちばんの楽しみにしている。将来、ひとりで買いものに行けなくなったら、私が今よりひんぱんに帰省するつもり。ちなみに、実家の近所のひとり暮らし高齢者で、ホームヘルパーを頼んでいる人は誰もいない。他人が家に入ることに抵抗がある、と母は言う。そういう土地柄なのだろう。寝たきりになったら?それを考えると頭が痛いが、そのときの状況に応じて最善と思える方法をとるしかない。
例えば、私の顔を見るなり、「M子は仕事がキライだからなあ。××のおばちゃんに似たんだろ」。30分おきに公園やコンビニで休憩をとりながら車を運転すること4時間(夫の運転なら2時間のところ)、やっと実家にたどりついたばかりで疲労こんぱいの私には、そういう母の情け容赦のない口調がこたえる。早くに夫を亡くした母自身の苦労に比べ、私がのほほんと専業主婦でいる のがおもしろくないのだろうとすぐに察せられるのだが、以前から似たような発言があったとはいえ、これほど辛辣ではなかった。ここ2~3週間、私が帰省する間があいたので淋しかったのだろうか、近所の人とトラブルでもあって、そのストレスをぶつけているだけなのだろうか?それとも、ここ数日、体調があまりよくないのを知りつつ、自分の家庭の都合で私が帰省を先延ばしにしたのを根にもっているのだろうか?
昔から自己中心的なもの言いをする母だったが、最近それがエスカレートしているような気がする。認知症の前兆ではないだろうか? しかし、そんな私の不安をよそに、母は延々と、さらに昔のことを引っぱり出してきては私を責めたてる。
出来る限り長く、今のこの生活スタイルを持続させたいと考えている。 2カ月ごとに帰省する妹に対しても、1カ月に2度帰省する私に対しても、野菜の切り方ひとつにも大きすぎる、小さすぎる、長すぎる、短すぎると必ず文句をつけ、せっかくつくった味噌汁も捨てて自分好みの味につくり直すような母ではあるが、この先もはや10年健在だろうかと思えば、我慢もできる。父亡きあと苦労して私たちを育ててくれた母なので、できるかぎりのことはしてあげたい。将来、私自身が、こうしてあげればよかった、ああしてあげればよかったと後悔しないために。
(会報パオッコ8号より)